ディスカッションテーマ01
銃や砲と言えば金属。特に鉄の製造、加工は銃砲の製造には不可欠な 要素です。「いものもきたえも分からん奴がいるけん」と岡山の頑固オヤジには是非、発言して欲しい。昔、ツノセさんと言う方が、日本の火縄銃は鋳物と書いてましたが、実際みると鋳物、勿論偽物もあるが。
岡山の頑固町工場オヤジの研究はぜひ書いてもらいたい。 またタタラでどの程度の量の鉄が作られたのか。 日本お鉄器時代は1800年の歴史とも云われているが。 真鍮は鋳物か削りだしか。 なぜブロンズや真鍮のボディの銃器をつくったか。 銃器に硬い鉄をやわらかい鉄の使いわけは。 青銅砲の強度 靖国に芝辻砲は偽物か。 など知らないことはいっぱいある。 「頑固町工場オヤジの実験、銑鉄(いもの)ではウエーブが返ってこない」
金属の事でと 専門家の先生が多いなかで 科学組織を論じても歯がたちませんので なぜ真鍮を細工に使うかわ述べて見ます ご存知ように 真鍮は錆びにくく強度も有り又装飾性も兼ね備えていた為 船舶の部品には昔から多用されていました 火縄銃の真鍮は黄色雅強く材質はやわらかく手作業の加工はしやすい真鍮ですが 現在の旋盤加工には向きません 分かりやすく違いを説明しますと 無垢材をドリルで加工するとりんごの皮をむくように切粉がなるのが昔ながらの真鍮 細かい砂のようになるのは6/4黄銅と言われるもので これは目づまりしなく硬い為加工がしやすい材質です ただ熱を加えると変化しますので溶着は最後の最後にしないと苦労する結果に成ります 昔の青銅砲や真鍮銃身は数回の発射でやわらかくなりすぎ 使い物にならなかったので無いでしょうか 今回はこの程度にしときます
火縄銃の欠落部品を、再製作すると、絶対に色が同じにならないのは 合金の比率のせいでしょうか。また昔のままでも色が違う材質がありますが?
反射炉を持たなかった加賀藩は,幕末まで青銅砲の生産をしていました.青銅は大坂より購入し,錫は薩摩産および輸入錫(紅毛錫)を購入しました.青銅の錫と銅の比率は大砲の種類に関係なく,一定であったことが,各種の青銅砲の鋳造記録から明らかになっています. コストは約70%が原料代となっています. 佐賀藩の史料では,青銅砲は製造コストが高いから,鉄製砲を生産した.その為に反射炉の技術を取得したのです. ところが弾丸は銑鉄の鋳物製であったのです.
板垣さま 貴重な情報ありがとうございました。当史学会には幕末の大砲を研究しているものが何人もいますが、大砲にまい進しパソコンをやらない会員が多いのです。追って彼らからご質問などが行きます。
板垣様 「大砲の種類に関係なく合金の割合が一定であった」とのことですがその根拠となる鋳造記録とはどのようなものでしょうか? 時代は何時代、何種類くらいの記録でしょうか? 各地に残る青銅砲の肌色が赤味がかったり黒味がかったり黄色味であったりするのは合金の割合が異なっているせいかと思っていますので・・その鋳造記録を是非教えて頂きたいと思います。 貴重なご意見ありがとうございました。
先日、板橋郷土資料館小西館長から発表のあった、板橋の加賀屋敷の 大砲鋳造の話と、地元、加賀の鋳造、何らかの技術的な交流があったことは、当時の政治体制から明らかなので、この点も大きな課題となるのではないでしょうか。 板橋加賀屋敷の鋳造には多くの描かれた資料があったのですが、加賀にもあれば、その比較などは興味がありますね。
峯田氏のご質問にたいするお答え: 尤もてがるには拙稿「加賀藩の火薬 Ⅳ.加賀藩・鈴見鋳造所と銃砲,日本海域研究,41,p69-87,2010.を御覧頂ければよいとおもいます. 本論文は金沢大学図書館KURAより検索していただけば,コピーを得ることができます. 原史料は「壮猶館雑記」安政2年です. 本論文では,史料から弾丸は鉛製と記していますが,これは別の史料から誤りであり,全て鋳鉄製であったことが明らかになっています.
須川氏のご質問にたいするお答え: 加賀藩江戸屋敷での大砲の鋳造には,金沢からも役人,医師,鋳物師とうが上京していた史料があります.江戸では嘉永6年から約20挺の大砲を鋳造していたようですが,詳しい史料は見つかっていないようです(小西氏よりの私信).技術的には深い関係があったことと考えられます.嘉永年間は金沢では主に鉄鋳物製の野戦砲(150目,200目)を鋳造していました. なお,加賀藩鈴見鋳造所については詳細に描かれた絵図が3枚あります.特に慶應初期と見られる絵図は,全国で最も詳細に記載された絵図と考えられます.建物の柱,板戸,畳の数,便所等が詳しく描かれています.
板垣様 ご教示有り難うございました。
板橋では研削に水車を動力としていたと、先日の小西館長の話があった。 一昨日の大雨、石神井川の流れは怒涛のごとくあふれ、案外高低差があり、 動力としての実用的性が証明されました。
靖国神社遊就館において、芝辻砲と韮山砲を行ったり来たりして比べて観ました。芝辻砲は以前は雨ざらしのまま何十年間か置かれてましたが、今は錆びを落とし館内に。鉄肌を比較すると、芝辻砲は鍛造、韮山砲は鋳造と 明確に理解できました。韮山砲は加農砲と説明がありましたが、どう見ても 野砲だったと感じました。
新参の山本伊左夫です。 今後ともよろしくご指導くださいますようお願い致します。 4月13日の須川様の真鍮材質のご質問ですが、まず色が違うのは錫及び亜鉛の含有量の違いがあるとおもいます。 大手の非鉄金属店へ行きますといろんな含有率のものがミルシート(成分表)によって購入可能ですが、肝心の鉄砲の方が千差万別でありますので、各種の近いものを少しずつ買っておいてそのつど比較して合わせるほかはないと思います。 なお非鉄屋さんはたいていは小さなものでも取り寄せ販売します。 大ざっぱに言って時代物の方が銅分が少ないように思います。 白っぽいです。強度は落ちます。 明らかに曲げ加工の形跡の物もありますが、バネなどでも鋳造の物もあるようです。 鋳造品は同じ材質でもさらに白っぽく見えます。 もう一つは材質は同じでも製造法によって色合いや展延性、粘性が違って来ます。 合金が作られると最初は鋳込み冷却されます。 鋳込みのまま売される商品があります。 現代のものは連続鋳造方式と言ってトコロテンのように製造されます。 表面を観察するとそれと分かる痕跡があります。 大体はヨーカンのように四隅がやや丸い場合があります、もちろんカット品もありますが。 色調は同一材質でもやや白っぽく時代物に似ており加工も快削性があるのため、好んで材料に使う方がありますが、展性が少なく簡単に折損破砕しますので銃の材料としてはまったくお勧めしたくないです。 ハンマーで強打すると砕けます。 これで作られたニセモノの短筒を見たことがあります。(平成10年ころで登録証がついていました、ぞっとしました) 業界ではFB(=フラットバー又はフォ-ジドバー)と通称します。 もう一つの物はこれをさらに冷間ロール鍛造したものです。 厚さはかなり厚いものまであります。 ロールされているため表面に強い光沢があり、同じ成分の物でも屈曲強さなどは、繰返し曲げも強曲してもFBとは比較になりません。 表面と内部で色調が違います。 ハンマーで強打すると凹むか伸びます。 古式の補修には表面を削除(1/1000ミリくらいか、小さなものならサンドペーパー手作業でも出来ます)するのがいいと思います。 バネを作るのはこの材質でなければなりません。 300度くらいで焼ならし(軟化)ができます。 150度くらいで急冷すると焼き入れに近い効果が出ます。 完成品をてんぷら急冷にするのが安全です。 業界では(圧延材、シート材、シートメタル、SM)などと呼びます。 表面の強い光沢が特徴です。 溶接はガスで低温のプロパンガス(バーナーボンベ)などがいいです、アセチレンでは強すぎて加減が難しいです。 蝋は(タンガロイ銀蝋)が強度、対衝撃性が高く 仕上がったときに真鍮色になり成績がいいです。 長時間経過してサビが回るとかすかに色が違って来ますが研磨すると戻ります。 0、1ミリほどの厚さのシート状で売られており 一箱2万円内外ですが、工具専門商では1000円単位くらいで切り売りしてるところがあります。 DIY店の棒状品を使うと色が違ってしまう場合が多いです。(安いですが) 加工硬化しますから、複雑な加工の場合は何度か加熱(300度)なましをすると楽です。 なお真鍮は120~150度、低温のテンプラ油程度に加熱状態にするだけでも格段に加工(とくに打出し)などは楽になります。 シートメタルそのままを冷間で叩くとどんどん硬くなりひどい音がして加工は非常に困難になります。 火ぶたなどの複雑な形状の物はいくつかの大ざっぱ部品に分けて作り、タンガロイ蝋でまとめてから削るのがいいと思います。 雨覆いの(かかり)などは削り出さなくても、焼き戻してからバイスに端を少し出して挟み、ハンマーで叩いて肉寄せすれば原型は出ます。 仕上がってから硬化させればいいものが出来ます。 雨覆いの(煙返し)などは時代物はあまり溶接してないようです。 鋳造でない場合は地板に少し先広がりの角穴を明け部品をホゾ形に作ってはめ込みかしめてあるようです。 強く打たずに小さく数多く打ちます。このとき切削加工したてであることと、わずかに加熱(せいぜい100度強)してあると容易に鍛接状態になります(一体化します)。 細かい細工、筌や盗人金の馬などはこの方法の方が精密確実にできます。 たいした機械はなくてもバイス、ドリル、糸ノコ、ヤスリ、ハンマー、ガスバーナ程度でどなたでも慣れればからくり全部くらいでも出来るのではと思います。 時代史料はからくりの地板は鋳造で凹凸部品は鍛造材切り出しが多いようなきがします。 ちなみに真正品の地板は後ろが厚く前がやや薄くなっています。 偽物判別の一つの目安になります。 ご参考になれば幸甚です。
那珂湊反射炉遺跡 皆様すでにご存じでしょうけれども、韮山遺跡を(日本唯一の遺跡)という方もありますので念のため現状をご説明します。 ①所在 茨城県那珂湊市大洗 (復元現存) ②設置時期 安政元年(1854)着工 安政三年(1856)操業開始 ③規模 二基二炉 (韮山・佐賀と同じ形式、ヒュ ーゲニン設計に準拠) ④立地 海岸近くだが小高い(標高3~40m)の 丘上にある。基礎軟弱と湧水に悩んだらし い韮山・佐賀の例を参考にしたのかも?。 ⑤成果 鋳銑砲の製造には成功したが、韮山・佐賀 よりは品質・数量共に劣った。 原料鉄に問題ありと見て南部(岩手県)に 岩鉄(鉄鉱石)による高炉建設を計画する も大獄及び天狗諸生の乱などで頓挫。 ⑥砲製造法 初期には中子式鋳造、後に水車動力に よる鑽開法。 ⑦遺跡の現状 炉体は倒壊したものを復元した物。 炉室などの形状はほぼ忠実に再現されてい る、また旧時のレンガを使用しているが、 全体はコンクリートでまとめられている。 関連施設 レンガ焼成炉も復元されている。 一種の登り窯で旧時のレンガが多数使用さ れているが、崩落して史料が転がっている ものなどある。 原位置から若干移動していると思われる。 コンクリート補強。 鑽開場は位置を確認することも困難で不明。 水量が少なかったと言われている。 周囲は那珂川河口域で低湿地、勾配が少な いが、逆に那珂川は小河川だが現在も著名 なあばれ川。 その他。 水戸市内(千波湖畔)にある常盤神社義列 館に(鑽開機模型)があるはず。 この神社には天保十三年(1842)鋳造 とされる銅製臼砲(太極砲)展示がある。 関連したもので駅前の(水戸東照宮)に (安神車)という(牛牽式戦車!)の遺物 がある。 鉄板張りの二人ほど乗れる装 甲荷車といった趣。 製作発想はいずれも斉昭公で反射炉と同 じ。 ⑧反射炉創業者 創案は徳川斉昭。 立案者は藤田東湖。 実地の指揮者は南部藩士を招聘した大島総 左衛門高任(おおしまそうざえもんたかと う)ほか。 大島はこれに関連して釜石に高炉を計画し 後の釜石製鉄所の基とした。 また官営八幡製鉄所の創立にも参加、私面 では後に大黒葡萄酒を設立した。 ⑨大島による総括評価 「鉄製大砲の製造は炉などの技術もさるこ とながら原料鉄鋼の選択が最も重要であ る。 日本の砂鉄原料鉄は硬質脆弱で破断しや すく銃砲に向かない。酸化チタンの影 響か、必ず磁石、岩鉄などの、特に 赤鉄鉱が優れているのでこういうものを 選んで製砲しなければならない」 と藤田東湖に述べている。 (嘉永六年1853) ⑩雑感 この企画では他藩々士を招聘するなど極 めて斬新な部分が見られるが、危惧する とおり彼らと水戸藩士との間は険悪その ものと化し、今に残された記録は目を覆 う罵詈讒謗の集積である。 個人の行跡、「いつ誰が遊女を買った か」などまでが徹底応酬されているか ら、まさに後の官僚制度や政界を見る思 いがある。 恐らく鉄砲鍛冶の間では砂鉄が鉄砲に適 さないことは古くから衆知であったはず である。 倭寇に関するシナ側の文書に「倭鉄はソ ウ(燥の火へんを金へんに変えた字)鉄 であり、その性が硬脆であるので、彼ら は宋鉄と称して南宋鉄を求める。 数量 が大きいので性質の似たシャム鉄を混ぜ て宋鉄として売る」という記述が見られ る。 文字通り(南蛮鉄)である。 鉄砲の大普及から二百年以上を経てなお 藩士と呼ばれる官僚群は、このような現 場技術、当時としてはもはや秘密と言う に値しなかったのではないかと思う程度 のことを知ることが出来なかったのは、 やはり官僚化の弊害だったのだろうか。 大島の着眼も最初からの計画には織り込 まれていない。 ⑪蛇足 佐賀藩反射炉においても同じような技術 上の問題があり、試行錯誤の一として日 本刀を集めて溶かして見て不具合だった と聴いたことがある。 佐賀藩銃砲沿革史(秀島成忠)に出てる んじゃないかとひっくりかえしていると ころです。 「鉄砲の製作には刀鍛冶の技が・・・」 という言い方には、個人的には疑念をも っている。 ⑫個人的愚痴 自分のこのみで(経済事情も含めて)田 舎暮らしを享受しています。 環境、人間、食物、言うことは全くない のですが、ペンキ店が著しく充実してる のに図書館が小説と雑誌くらいしかない のは閉口します。 不勉強になりがちです。
山本様 先日、映画「桜田門の変」を見ていた際に水戸徳川家の斉昭公が「早く反射炉が完成すると良いが」との言葉を言ったシーンがあった。 その直後に倒れて亡くなる。その反射炉が大洗のものだったわけですか。常磐道は良く通るがそんな近くに反射炉があったとはついぞ知りませんでした。一度見学する価値あります。
須川様 大洗の反射炉の地理を申し上げます。 常磐道水戸でおり、国道51号を5キロ南下致しますと、海に突き当たり大きく右折する場所の左手が大洗です。 ここまでラッシュ以外はほとんど渋滞はありません。 大洗市内に入るとその北の外れという感じなのですが、道が古く入り組んでいて分かりにくいところがありますので、ちょっと聞いてください。 海岸からも、町中でも、あちこちから丘の上に見えているのです。 わたしはだいぶん長く行ってないので年明けにでも一度再訪したいと思います。 また現状をご報告します。 参考資料は、幕末明治製鉄史 大橋周次 アグネ 1975年 に他の製鉄計画と並べて総括的に説明されています。 また、日本製鉄事始 半沢周三 新人物往来 昭和49 には主宰者である大島高任と、大洗反射炉を中心に細かく書かれています、物語風になってます。 反射炉の設計図という見取り図のようなものや南部高炉の部分写真が挿入されています。 ではまた。
貴重な情報をいただき恐縮です。 大洗は一度は降りてみなければいけないなと思っていた場所です。 アンコウの季節でなくても。 ありがとうございました。またよろしくお願いします。
峯田正治様。 「砲の材料金属の配合率は一定というが、色がいろいろあるのは・・」のご質問に。 昔から“砲金”“GUN METAL”という言葉があるんですが、もともとの意義はともかくいまや何か大ざっぱで“黄色い銅合金”てなあやふやなイメージであります。 “青銅”“真鍮”の違いも、配合金属が錫か亜鉛かということのほかに、青銅は何か文学的哲学的で重々しく、真鍮はチャラチャラしたものの代表みたいなイメージが英語などではありますから、言葉面ではもっと混乱してます。 和田様がおっしゃるように(真鍮)に関しては耐塩性が有るということで艦船の砲以外の器具に多用され、Navy Metalとも称された歴史がありました。 それを発展させてAdmiral Metalという言い方が派生した(らしい)のですが、いかにも厳かな名前ですからこれを「大砲合金の秘密配合」というあちらの説があるようですが「やっぱ俗説くさいかなあ」と思っているのですがどうでしょうか。 本当の銅系大砲は理想的には銅と錫の合金である青銅が使われるのがよかったんでしょう。 一般に砲金(砲用青銅)は10%程度の錫と銅の合金と言われています。 青銅合金をこしらえますと、銅単体に比べて二種類の強さが現れます。 一つは固さ、もう一つは粘りです。 ご想像のとおり、鉄における炭素と似た相反関係にありまして、錫をだんだん増やしていくと固さは15%くらいまで暫増し、それを超えると直線的に急上昇して行きます、全体はほとんど二次曲線とお考えください。 伸展性、つまり粘り気は錫5%くらいまでが最高度でそれ以上では逆に二次曲線で降下して行きます。 (固くて粘い)のが理想としますとこの二つの曲線は12~13%位のところで交わりますから、もしそこが理想配合だとすれば、二種の混合比ですから若干の混合比実験を行えば昔の鋳造師は比較的簡単にそのポイントを見つけだしたと思います。 ところが。 そう世の中うまく行かないのです。 「色がいろいろ有るのはどういう訳か?」とおっしゃるのは「いいご質問ですねぇ」。 一つは意図的にかどうか、結果的にもう少し別種の金属を配合したようです。 西洋の鐘は「キンコンカンコン」日本の鐘は「ごおぉぉ~ん」。 感覚的にも日本の鐘配合のほうが砲に適しているような気がしますが、そのとおりなのです。 日本の鐘の組成はいろいろ違いが有りますが、錫の含有率は5%~8%くらいで伸展性はやや低下しはじめますが固さは急上昇前になってそれをおぎなっています。 さらに西欧のにはない配合金属が入っているのです。 その成分としてはまず亜鉛が1~3%あるもの、さらに鉄分が1%ほどあります、鉛も5%内外含まれます。 亜鉛は西欧のものには配合例が少なく鉄、鉛はまずありません。 逆に西欧の鐘は錫を20%ほども含むものが多いのです。 これは固くて高い音はしますが粘りは最悪ですぐに割れます。 製砲師がこの鐘の配合の関係ををどうつかんでいたかどうかはちょっと難しい判断ですが、日本の鐘の場合は組成にかなりばらつきがありますから、色のいろいろは意識的よりも素材がそうだった可能性も有りますし、それでも全体として「ご~ん」と鳴ってくれなければ商売にならないので、結果粘い系ですから「大砲もほぼそのままでいいか」になっちゃった可能性というのはどうでしょうか。 もう一つ西欧の材質には隠れた問題があったようです。 大航海時代にかかりはじめるころの大砲大需要期には、基本金属の銅が戦略物資として奪い合いになり、当然禁輸などの対抗措置が取られますからますます希少化したようです。 そこで、軍隊が他国の港湾都市などを占領したときは教会の鐘を戦利品として徴発することが行われました。 (鐘徴収権)というものが軍には与えられていたそうですが、(権利)なんかどうでも当時の軍は何でも好き勝手に徴収強奪したでしょうけれども、なにしろ多くの場合ほぼキリスト教同士の神様の財物をかすめるのですから、こちら側の教会の認許とかオハライのようなものがないとやりにくかったのかもしれませんが。 (チボラ“大砲と帆船”)にかなり詳しくこの事情が説明されてます。 これを砲材にするには、錫を抜くか、他の銅材で薄めるというか代用食的に少しずつ混入するか、いずれにしても色彩いろいろの原因たりうるのではないでしょうか。 さらに銅像などはもっと遠慮なく奪取して原料化したでしょうし、原銅の入手が困難になればなるほどイロイロになりがちだったかも。 この時期の鉄製砲の登場(正確には第二回デビューですが)というのは銅払底のとどのつまりのヤケクソの様相だったようですし。 日本と西欧ではそういう配合率不統一の原因が少し違うのかも知れません。 情況証拠的で確定は出来ないのですが。 ご参考になれば幸甚です。
昨年の7月に、遊就館の芝辻砲を「鍛造」、韮山砲を「鋳造」と書いたのですが、芝辻砲も鋳造です。間違いました。
会員の皆様へ 大変な災害ですが、皆様大丈夫ですか。 いわき市の坂本会長は、ご無事とのこと(日ラ事務局)です。 鹿島市の山本伊左夫氏は大丈夫とのお返事ありました。 仙台若林区の会員菅野氏は、1番心配ですが、FAXは通じましたので、自宅は大丈夫なようです。
皆様、初めて質問させていただきます。 私、金属に関する知識がなく、 今まで「青銅製の大砲」というものは「青銅」という漢字から、青っぽい色なのだと恥ずかしながら思っておりました。 しかしながら峯田元治様のご指摘、「各地に残る青銅砲の肌色が赤味がかったり黒味がかったり黄色味であったりする」というご指摘に蒙を啓かれ、青銅の青緑色は腐食であることにきづいた次第です。 確かに、インターネット上で見ることができる、ナポレオン戦争や米国南北戦争等の、18世紀末から20世紀はじめ頃の大砲の絵には、砲身の色が黄色・金色のものが相当数あります。 こちらのホームページで使用されている絵画でも、「幕末調練絵巻」や「明治初期の陸軍調練図」に描かれている大砲の砲身は黄色・金色になっていますね。 幕末の幕府軍、官軍が使用した代表的な大砲として四斤山砲があると思いますが、この青銅砲の砲身は青銅・砲金の黄色・金色であったと認識してよいのでしょうか。 日本軍が日清戦争で使用した七糎野砲・山砲も青銅砲ですが、これらの砲身の色はどうだったのでしょうか? ご教授いただければ幸いです。
銃砲身の色ということについてですが、そのことに絞っての確実な記載がある資料というのは狭見でまだ見たことがありません。 ただ 解っていることはナポレオン戦争時代までは鉄砲銃身はほとんどが白磨きだったのは間違いないようです。 これば武威を誇示するためのようです。 黒く染めるようになったのは大ざっぱに言ってライフル銃大登場以後で、狙撃性能の進歩とそれに対する曝敵回避が目的でしょう。、 戦闘服の態様が大きく変わって行くのとほぼ同じ時期です。 第一次大戦ころはまだこの辺りの思想統一が中途半端だった形跡いくつも残ってます。 武威か隠蔽かという思想の混乱でかなりの犠牲を出しています。 中世西洋の軍隊は白兵主義思想の強い軍隊です。 傭兵中心の大軍勢を管理と指揮だけで戦わせるには密集+白兵(刀槍)中心に傾きます。 こういう軍勢は進撃時から刀槍をきらめかせて威嚇しようとします。 当然銃兵も同様の行動を取ることになるでしょう。 当時その鉄砲を完全に磨き上げておくのは兵士にとってなかなかの負担だったということです。 当然同じように大砲も実用時代は全部磨き上げていただろうと思います。 野外展示資料になっているものとはかなり状況が違っていたでしょう。 ただ、超巨大砲、コンスタンチノープル砲やモンスメグがどうだったかと言われると形状から考えても磨き上げは難しかったかも知れません。 あんまり磨くことを前庭として造られて無いようにも見えます。 ほとんど定置砲だったからかも知れません。 日本の武士の戦闘法は射兵中心主義です。 鈴木眞哉氏の指摘にあるとおり、戦国末期の戦いでもほとんど80%は飛び道具で決着しております。 その一部に後参で鉄砲が加わった訳です。 日本の火縄銃は、製作当初どうだったのかということですが、恐らく熱着色していて、黒色だっただろうと思います。 家康使用などの銘柄品が黒いですから、自然サビでああなったなとは考えにくいと思います。 曝敵忌避と言うことではなく、白兵威嚇思想があんまり無かったので「さびにくいほうがよろしい」という論理が通ったんだろうと思います。 青銅や真鍮の人為着色は案外面倒で、やっても益は少なく、一番優れているのは表面に金を焼き付け赤銅化することですが、蛮用すればすぐに傷付きかえってみっともなくなります。 日本軍は現在でも武器管理は突出して丁寧ですから、山砲などもピカピカに磨き上げていたと考える方がいいのではないかと思います。 資料を探してみたのですが発見できないので想像創造が強いですが。
山本伊左夫さま、ご丁寧に教えていただき有難うございます。お手数をおかけしてしまい申し訳ありません。 相当部分の疑問が氷解しました。 「白磨き」の件、大変興味深く思います。 昔日の「常識」というものは、なかなか想像できないものがあるのですね。 戊辰戦争や、西南戦争において両軍で使用された火器も「白磨き」で整備されていたものなのでしょうか? 「白磨き」、フランス以外に欧州各国で同様に行われていたのでしょうか? (こういう疑問をもったのは、プロイセン=ドイツの、「鉄十字」の中心部分が黒なのはなぜかと、ふと思った次第です。) 更なる質問、ご容赦ください。
小銃の白磨きは近世、大ざっぱな言い方ですが軍が傭兵団アウトソーシングやりっぱなし主体でなくなって、兵制ができあがって行くころから、ナポレオン期くらいまでは、絵などで見ましても各国というか各方面というか大体は白磨きであったようです。 ヨーロッパの時代劇映画などでも、大体はこれはきちんと描いてますね。 傭兵団アウトソーシングオンリーが中心だった時代は、武器も多分個人持参ですからどうかよく判りません。 恐らく不統一です。 不統一時代はいつ頃までかと言われるとこれまたあいまいなのですが、一般に「マウリッツの兵制改革あたりじゃないの」と言うのを古い話とし、グスタフの(武器一定)を新しい時期の話とするなど、非常にいいかげんな話なのです。 なおわたしの気分としては、マッキャベリが、統一軍服で分列行進する軍隊を見て、「これこそが新時代だ」と叫んだそうな・・・という、あんまり確証のない話が伝わってますから、そのころからかなとは思っています、大体1500年前後と思います。 ものすごええかげんにしか判らないのです。 鉄の色は何色か・・と言いますと、古くは白色と答える人が多かったんじゃなかろうかと思います。 仕上げ状態の鉄を黒くするというのは案外手間なんです。 百年戦争初期のエドーワード王はブラックプリンスと呼ばれたそうですが、あの甲冑というのはそれほど珍だったということです。 鉄の色かそのうえに着たものの色か、あるいは張ってあった何かの布地革の色かはっきりはしません。 ドイツの国章ですが、(鉄十字)だから「黒くて固くてリッパなんだぞ」と言うイメージを押し出したのは、プロイセン時代、つまりヒンデンブルク前後だと思います。 このちょっと前のパリ万博で、鋳鋼(ハガネですぞ)の巨大な鐘をクルップが出品して、これは即鋼鉄製巨大砲の製造技術確立を意味しますから世界が震撼、「テツはドイツなり!」みたいな気負いも込められてたと思います。 十字章は十字軍時代の名残で、十字軍というのは 「キリスト教の(ローマ教会の)軍隊である」と言うことにどうしてもしておくというのが、まだまだあやふやなところがあった時代ですから、かえって「キリストに忠誠を誓うべし」ということは非常に強く要求されたものでありました。 西欧式の敬礼や捧げ筒。抜剣礼などはこのときの形式が強く残っています。 抜剣礼は当時の騎士刀のツバの部分、つまり十字架にキスをして忠誠をを誓って戦い始めるということです。 どこかのテッポー鳴らし隊さんが、日本刀を抜剣してチュしてましたが、真っ赤な鎧ともどもいささか・・・。 騎士は騎士で、教会の思惑とは別にキリスト様を最大限振りかざし、なかには心から振りかざすようになったのいますから、十字と言うのは貴い紋章というか、騎士どうし、あるいは騎士団の(合い印)に近いイメージで“乱用”されました。 赤十字、青十字、黄十字、白十字、縁取付十字、いろんな国旗にその痕跡がまだ残ってます。 色に意味があったのか、他との識別だけだったのか、黒は鉄の色なのか。 十字というのは簡単な紋章ですから、識別のため色はイロイロに付けまくったのじゃないでしょうか。 鉄十字というよりは黒十字だったような。 その中でゲルマン騎士団が黒十字のが多かったそうです。 見えやすくするために白ぶちをつけるのは当時から行われました。 当時の十字紋章は、現在の国旗のようにシンプルではなく、もっとゴチャゴチャ装飾のあるものが多かったのですが、後に“聖堂騎士団”の十字マントで「シンプルデザインもええなあ」なんて。 ただし騎士さんに直接聞いた訳ではありませんのであくまでなりゆきを眺めての推測です。 ハーケンクロイツは詳説すると長くなりますが、ゲルマンの伝統と、多分バイキング系の(巴形)の神秘感と、ひょっとしてインドの思想などをまぜこぜにして作られたと思います。 何しろ一時期自称アーリア民族でしたからね。 あれはナチ党のシンボルで、ドイツ軍はナチス軍と国軍との二本立てだったこともお忘れなく。 今もドイツ軍は鉄十字ですし、彼らと話すと鉄十字と柏葉、(よくサービスキャップのツバに使います、日本はオリーブの葉ですが)に関しては異様なほどに高い誇りをもっています。 ドイツ国旗をデモ隊が燃やしても抗議が来るだけですが、鉄十字章旗を燃やしたらただでは済まない雰囲気があります。 余談 以前に「英国人はヒステリックな冷静人だが、ドイツ人は冷静極まりないヒステリーだ」といったら「おめえさん、ウマイこというなあ!」とドイツ人にホメラレタ?ことがあります。 なお余談。 オリーブの葉を(ヘーワのショーチョー)と信じてるのは、「・・はイケナイ、ダメったらダメ」のおばさんだけかも。 タバコのピースのデザインで有名になってなんとなく平和の象徴?。 あれってノアの方舟に関係した(再生・復興)の意味だったような、これも想像。 ヨーロッパでは、オリーブはパクスロマナの象徴。つまり史上最初の大規模植民地主義帝国の象徴のような気がするんですけどね。 ローマが進軍するたびにオリーブを植えてたと言われ、今もローマ軍が馬つなぎに打ち込んだオリーブの杭が芽を出した円形の植え込みが残ってるそうですが。 長くて失礼しました。
補遺 老人は粗雑で失礼します、落としました。 西南戦争の銃器の色ですが、多分混合してたと思います。 原則的にはライフル銃、特にエンフイルド(エンピール)は黒染めだったのは間違いありません。 ところが後装銃であるシャスポーは、原銃に武庫で村田式研究改造を試みたと思われるもののウブを発見したことがありますが、これは完全に白磨きのものでした。 この銃は横浜の県立博物館に寄贈、常設展示ではありませんが史学会を通じて頼めば見せてくれると思います。 ゲベール銃は改造されたものが多く、あやふやな史料しかないのですが、どうやら白い方が多いようです。 なかにはゲベールそっくりのライフル銃と言うのもあります。私蔵しているものにベルギー製の可動照門をもった重たいライフル銃がありますが、白磨きです。 西南の役の当時は、軍の装備も、旧蔵品のうち程度のいいものを選んで使う時代ですから、使われた鉄砲の色もいろいろだったと思います。
山本伊左夫様、疑問氷解しました。 また、様々な興味深いお話、ありがとうございます。 また、何かありましたらご教授を請うこともあるかと思います。 よろしくお願いします。
欧米の古銃は原則、白磨ですが、英国およびその他海軍のものは何らかの方式で黒くしたあったと聞きました。もちろん、日本にあるもので錆かオリジナルかわからぬものもありましたが。 最近では帝国海軍陸戦戦隊は黒染の兵器の上にさらに黒くしたあるのが一般的でした。海で使用する特性だったのではないでしょうか。 もちろん、ゲベール、ミニエの時代はその原則に従っていたと思われます。
銃や砲と言えば金属。特に鉄の製造、加工は銃砲の製造には不可欠な
要素です。「いものもきたえも分からん奴がいるけん」と岡山の頑固オヤジには是非、発言して欲しい。昔、ツノセさんと言う方が、日本の火縄銃は鋳物と書いてましたが、実際みると鋳物、勿論偽物もあるが。
岡山の頑固町工場オヤジの研究はぜひ書いてもらいたい。

またタタラでどの程度の量の鉄が作られたのか。
日本お鉄器時代は1800年の歴史とも云われているが。
真鍮は鋳物か削りだしか。
なぜブロンズや真鍮のボディの銃器をつくったか。
銃器に硬い鉄をやわらかい鉄の使いわけは。
青銅砲の強度
靖国に芝辻砲は偽物か。
など知らないことはいっぱいある。
「頑固町工場オヤジの実験、銑鉄(いもの)ではウエーブが返ってこない」
金属の事でと 専門家の先生が多いなかで 科学組織を論じても歯がたちませんので なぜ真鍮を細工に使うかわ述べて見ます ご存知ように 真鍮は錆びにくく強度も有り又装飾性も兼ね備えていた為 船舶の部品には昔から多用されていました 火縄銃の真鍮は黄色雅強く材質はやわらかく手作業の加工はしやすい真鍮ですが 現在の旋盤加工には向きません 分かりやすく違いを説明しますと 無垢材をドリルで加工するとりんごの皮をむくように切粉がなるのが昔ながらの真鍮 細かい砂のようになるのは6/4黄銅と言われるもので これは目づまりしなく硬い為加工がしやすい材質です ただ熱を加えると変化しますので溶着は最後の最後にしないと苦労する結果に成ります 昔の青銅砲や真鍮銃身は数回の発射でやわらかくなりすぎ 使い物にならなかったので無いでしょうか 今回はこの程度にしときます
火縄銃の欠落部品を、再製作すると、絶対に色が同じにならないのは
合金の比率のせいでしょうか。また昔のままでも色が違う材質がありますが?
反射炉を持たなかった加賀藩は,幕末まで青銅砲の生産をしていました.青銅は大坂より購入し,錫は薩摩産および輸入錫(紅毛錫)を購入しました.青銅の錫と銅の比率は大砲の種類に関係なく,一定であったことが,各種の青銅砲の鋳造記録から明らかになっています.
コストは約70%が原料代となっています.
佐賀藩の史料では,青銅砲は製造コストが高いから,鉄製砲を生産した.その為に反射炉の技術を取得したのです.
ところが弾丸は銑鉄の鋳物製であったのです.
板垣さま
貴重な情報ありがとうございました。当史学会には幕末の大砲を研究しているものが何人もいますが、大砲にまい進しパソコンをやらない会員が多いのです。追って彼らからご質問などが行きます。
板垣様
「大砲の種類に関係なく合金の割合が一定であった」とのことですがその根拠となる鋳造記録とはどのようなものでしょうか?
時代は何時代、何種類くらいの記録でしょうか?
各地に残る青銅砲の肌色が赤味がかったり黒味がかったり黄色味であったりするのは合金の割合が異なっているせいかと思っていますので・・その鋳造記録を是非教えて頂きたいと思います。
貴重なご意見ありがとうございました。
先日、板橋郷土資料館小西館長から発表のあった、板橋の加賀屋敷の
大砲鋳造の話と、地元、加賀の鋳造、何らかの技術的な交流があったことは、当時の政治体制から明らかなので、この点も大きな課題となるのではないでしょうか。
板橋加賀屋敷の鋳造には多くの描かれた資料があったのですが、加賀にもあれば、その比較などは興味がありますね。
峯田氏のご質問にたいするお答え:
尤もてがるには拙稿「加賀藩の火薬 Ⅳ.加賀藩・鈴見鋳造所と銃砲,日本海域研究,41,p69-87,2010.を御覧頂ければよいとおもいます. 本論文は金沢大学図書館KURAより検索していただけば,コピーを得ることができます.
原史料は「壮猶館雑記」安政2年です.
本論文では,史料から弾丸は鉛製と記していますが,これは別の史料から誤りであり,全て鋳鉄製であったことが明らかになっています.
須川氏のご質問にたいするお答え:
加賀藩江戸屋敷での大砲の鋳造には,金沢からも役人,医師,鋳物師とうが上京していた史料があります.江戸では嘉永6年から約20挺の大砲を鋳造していたようですが,詳しい史料は見つかっていないようです(小西氏よりの私信).技術的には深い関係があったことと考えられます.嘉永年間は金沢では主に鉄鋳物製の野戦砲(150目,200目)を鋳造していました.
なお,加賀藩鈴見鋳造所については詳細に描かれた絵図が3枚あります.特に慶應初期と見られる絵図は,全国で最も詳細に記載された絵図と考えられます.建物の柱,板戸,畳の数,便所等が詳しく描かれています.
板垣様
ご教示有り難うございました。
板橋では研削に水車を動力としていたと、先日の小西館長の話があった。
一昨日の大雨、石神井川の流れは怒涛のごとくあふれ、案外高低差があり、
動力としての実用的性が証明されました。
靖国神社遊就館において、芝辻砲と韮山砲を行ったり来たりして比べて観ました。芝辻砲は以前は雨ざらしのまま何十年間か置かれてましたが、今は錆びを落とし館内に。鉄肌を比較すると、芝辻砲は鍛造、韮山砲は鋳造と
明確に理解できました。韮山砲は加農砲と説明がありましたが、どう見ても
野砲だったと感じました。
新参の山本伊左夫です。 今後ともよろしくご指導くださいますようお願い致します。
4月13日の須川様の真鍮材質のご質問ですが、まず色が違うのは錫及び亜鉛の含有量の違いがあるとおもいます。
大手の非鉄金属店へ行きますといろんな含有率のものがミルシート(成分表)によって購入可能ですが、肝心の鉄砲の方が千差万別でありますので、各種の近いものを少しずつ買っておいてそのつど比較して合わせるほかはないと思います。
なお非鉄屋さんはたいていは小さなものでも取り寄せ販売します。
大ざっぱに言って時代物の方が銅分が少ないように思います。 白っぽいです。強度は落ちます。
明らかに曲げ加工の形跡の物もありますが、バネなどでも鋳造の物もあるようです。
鋳造品は同じ材質でもさらに白っぽく見えます。
もう一つは材質は同じでも製造法によって色合いや展延性、粘性が違って来ます。
合金が作られると最初は鋳込み冷却されます。
鋳込みのまま売される商品があります。
現代のものは連続鋳造方式と言ってトコロテンのように製造されます。 表面を観察するとそれと分かる痕跡があります。 大体はヨーカンのように四隅がやや丸い場合があります、もちろんカット品もありますが。
色調は同一材質でもやや白っぽく時代物に似ており加工も快削性があるのため、好んで材料に使う方がありますが、展性が少なく簡単に折損破砕しますので銃の材料としてはまったくお勧めしたくないです。 ハンマーで強打すると砕けます。
これで作られたニセモノの短筒を見たことがあります。(平成10年ころで登録証がついていました、ぞっとしました)
業界ではFB(=フラットバー又はフォ-ジドバー)と通称します。
もう一つの物はこれをさらに冷間ロール鍛造したものです。 厚さはかなり厚いものまであります。
ロールされているため表面に強い光沢があり、同じ成分の物でも屈曲強さなどは、繰返し曲げも強曲してもFBとは比較になりません。
表面と内部で色調が違います。
ハンマーで強打すると凹むか伸びます。
古式の補修には表面を削除(1/1000ミリくらいか、小さなものならサンドペーパー手作業でも出来ます)するのがいいと思います。
バネを作るのはこの材質でなければなりません。
300度くらいで焼ならし(軟化)ができます。
150度くらいで急冷すると焼き入れに近い効果が出ます。 完成品をてんぷら急冷にするのが安全です。
業界では(圧延材、シート材、シートメタル、SM)などと呼びます。
表面の強い光沢が特徴です。
溶接はガスで低温のプロパンガス(バーナーボンベ)などがいいです、アセチレンでは強すぎて加減が難しいです。
蝋は(タンガロイ銀蝋)が強度、対衝撃性が高く
仕上がったときに真鍮色になり成績がいいです。
長時間経過してサビが回るとかすかに色が違って来ますが研磨すると戻ります。
0、1ミリほどの厚さのシート状で売られており
一箱2万円内外ですが、工具専門商では1000円単位くらいで切り売りしてるところがあります。
DIY店の棒状品を使うと色が違ってしまう場合が多いです。(安いですが)
加工硬化しますから、複雑な加工の場合は何度か加熱(300度)なましをすると楽です。
なお真鍮は120~150度、低温のテンプラ油程度に加熱状態にするだけでも格段に加工(とくに打出し)などは楽になります。
シートメタルそのままを冷間で叩くとどんどん硬くなりひどい音がして加工は非常に困難になります。
火ぶたなどの複雑な形状の物はいくつかの大ざっぱ部品に分けて作り、タンガロイ蝋でまとめてから削るのがいいと思います。
雨覆いの(かかり)などは削り出さなくても、焼き戻してからバイスに端を少し出して挟み、ハンマーで叩いて肉寄せすれば原型は出ます。
仕上がってから硬化させればいいものが出来ます。
雨覆いの(煙返し)などは時代物はあまり溶接してないようです。
鋳造でない場合は地板に少し先広がりの角穴を明け部品をホゾ形に作ってはめ込みかしめてあるようです。 強く打たずに小さく数多く打ちます。このとき切削加工したてであることと、わずかに加熱(せいぜい100度強)してあると容易に鍛接状態になります(一体化します)。
細かい細工、筌や盗人金の馬などはこの方法の方が精密確実にできます。
たいした機械はなくてもバイス、ドリル、糸ノコ、ヤスリ、ハンマー、ガスバーナ程度でどなたでも慣れればからくり全部くらいでも出来るのではと思います。
時代史料はからくりの地板は鋳造で凹凸部品は鍛造材切り出しが多いようなきがします。
ちなみに真正品の地板は後ろが厚く前がやや薄くなっています。 偽物判別の一つの目安になります。
ご参考になれば幸甚です。
那珂湊反射炉遺跡
皆様すでにご存じでしょうけれども、韮山遺跡を(日本唯一の遺跡)という方もありますので念のため現状をご説明します。
①所在 茨城県那珂湊市大洗 (復元現存)
②設置時期 安政元年(1854)着工
安政三年(1856)操業開始
③規模 二基二炉 (韮山・佐賀と同じ形式、ヒュ ーゲニン設計に準拠)
④立地 海岸近くだが小高い(標高3~40m)の 丘上にある。基礎軟弱と湧水に悩んだらし い韮山・佐賀の例を参考にしたのかも?。
⑤成果 鋳銑砲の製造には成功したが、韮山・佐賀 よりは品質・数量共に劣った。
原料鉄に問題ありと見て南部(岩手県)に
岩鉄(鉄鉱石)による高炉建設を計画する も大獄及び天狗諸生の乱などで頓挫。
⑥砲製造法 初期には中子式鋳造、後に水車動力に よる鑽開法。
⑦遺跡の現状
炉体は倒壊したものを復元した物。
炉室などの形状はほぼ忠実に再現されてい る、また旧時のレンガを使用しているが、 全体はコンクリートでまとめられている。
関連施設
レンガ焼成炉も復元されている。
一種の登り窯で旧時のレンガが多数使用さ れているが、崩落して史料が転がっている ものなどある。
原位置から若干移動していると思われる。
コンクリート補強。
鑽開場は位置を確認することも困難で不明。 水量が少なかったと言われている。
周囲は那珂川河口域で低湿地、勾配が少な いが、逆に那珂川は小河川だが現在も著名 なあばれ川。
その他。
水戸市内(千波湖畔)にある常盤神社義列 館に(鑽開機模型)があるはず。
この神社には天保十三年(1842)鋳造 とされる銅製臼砲(太極砲)展示がある。
関連したもので駅前の(水戸東照宮)に
(安神車)という(牛牽式戦車!)の遺物 がある。 鉄板張りの二人ほど乗れる装 甲荷車といった趣。
製作発想はいずれも斉昭公で反射炉と同 じ。
⑧反射炉創業者
創案は徳川斉昭。
立案者は藤田東湖。
実地の指揮者は南部藩士を招聘した大島総 左衛門高任(おおしまそうざえもんたかと う)ほか。
大島はこれに関連して釜石に高炉を計画し
後の釜石製鉄所の基とした。
また官営八幡製鉄所の創立にも参加、私面 では後に大黒葡萄酒を設立した。
⑨大島による総括評価
「鉄製大砲の製造は炉などの技術もさるこ とながら原料鉄鋼の選択が最も重要であ る。
日本の砂鉄原料鉄は硬質脆弱で破断しや すく銃砲に向かない。酸化チタンの影 響か、必ず磁石、岩鉄などの、特に 赤鉄鉱が優れているのでこういうものを 選んで製砲しなければならない」
と藤田東湖に述べている。
(嘉永六年1853)
⑩雑感
この企画では他藩々士を招聘するなど極 めて斬新な部分が見られるが、危惧する とおり彼らと水戸藩士との間は険悪その ものと化し、今に残された記録は目を覆 う罵詈讒謗の集積である。
個人の行跡、「いつ誰が遊女を買った か」などまでが徹底応酬されているか ら、まさに後の官僚制度や政界を見る思 いがある。
恐らく鉄砲鍛冶の間では砂鉄が鉄砲に適 さないことは古くから衆知であったはず である。
倭寇に関するシナ側の文書に「倭鉄はソ ウ(燥の火へんを金へんに変えた字)鉄 であり、その性が硬脆であるので、彼ら は宋鉄と称して南宋鉄を求める。 数量 が大きいので性質の似たシャム鉄を混ぜ て宋鉄として売る」という記述が見られ る。 文字通り(南蛮鉄)である。
鉄砲の大普及から二百年以上を経てなお 藩士と呼ばれる官僚群は、このような現 場技術、当時としてはもはや秘密と言う に値しなかったのではないかと思う程度 のことを知ることが出来なかったのは、 やはり官僚化の弊害だったのだろうか。
大島の着眼も最初からの計画には織り込
まれていない。
⑪蛇足
佐賀藩反射炉においても同じような技術 上の問題があり、試行錯誤の一として日 本刀を集めて溶かして見て不具合だった と聴いたことがある。
佐賀藩銃砲沿革史(秀島成忠)に出てる んじゃないかとひっくりかえしていると ころです。
「鉄砲の製作には刀鍛冶の技が・・・」
という言い方には、個人的には疑念をも っている。
⑫個人的愚痴
自分のこのみで(経済事情も含めて)田 舎暮らしを享受しています。
環境、人間、食物、言うことは全くない のですが、ペンキ店が著しく充実してる のに図書館が小説と雑誌くらいしかない のは閉口します。
不勉強になりがちです。
山本様
先日、映画「桜田門の変」を見ていた際に水戸徳川家の斉昭公が「早く反射炉が完成すると良いが」との言葉を言ったシーンがあった。
その直後に倒れて亡くなる。その反射炉が大洗のものだったわけですか。常磐道は良く通るがそんな近くに反射炉があったとはついぞ知りませんでした。一度見学する価値あります。
須川様
大洗の反射炉の地理を申し上げます。
常磐道水戸でおり、国道51号を5キロ南下致しますと、海に突き当たり大きく右折する場所の左手が大洗です。 ここまでラッシュ以外はほとんど渋滞はありません。 大洗市内に入るとその北の外れという感じなのですが、道が古く入り組んでいて分かりにくいところがありますので、ちょっと聞いてください。 海岸からも、町中でも、あちこちから丘の上に見えているのです。
わたしはだいぶん長く行ってないので年明けにでも一度再訪したいと思います。
また現状をご報告します。
参考資料は、幕末明治製鉄史 大橋周次 アグネ 1975年 に他の製鉄計画と並べて総括的に説明されています。
また、日本製鉄事始 半沢周三 新人物往来 昭和49 には主宰者である大島高任と、大洗反射炉を中心に細かく書かれています、物語風になってます。 反射炉の設計図という見取り図のようなものや南部高炉の部分写真が挿入されています。
ではまた。
貴重な情報をいただき恐縮です。
大洗は一度は降りてみなければいけないなと思っていた場所です。
アンコウの季節でなくても。
ありがとうございました。またよろしくお願いします。
峯田正治様。
「砲の材料金属の配合率は一定というが、色がいろいろあるのは・・」のご質問に。
昔から“砲金”“GUN METAL”という言葉があるんですが、もともとの意義はともかくいまや何か大ざっぱで“黄色い銅合金”てなあやふやなイメージであります。
“青銅”“真鍮”の違いも、配合金属が錫か亜鉛かということのほかに、青銅は何か文学的哲学的で重々しく、真鍮はチャラチャラしたものの代表みたいなイメージが英語などではありますから、言葉面ではもっと混乱してます。
和田様がおっしゃるように(真鍮)に関しては耐塩性が有るということで艦船の砲以外の器具に多用され、Navy Metalとも称された歴史がありました。 それを発展させてAdmiral Metalという言い方が派生した(らしい)のですが、いかにも厳かな名前ですからこれを「大砲合金の秘密配合」というあちらの説があるようですが「やっぱ俗説くさいかなあ」と思っているのですがどうでしょうか。
本当の銅系大砲は理想的には銅と錫の合金である青銅が使われるのがよかったんでしょう。
一般に砲金(砲用青銅)は10%程度の錫と銅の合金と言われています。
青銅合金をこしらえますと、銅単体に比べて二種類の強さが現れます。
一つは固さ、もう一つは粘りです。
ご想像のとおり、鉄における炭素と似た相反関係にありまして、錫をだんだん増やしていくと固さは15%くらいまで暫増し、それを超えると直線的に急上昇して行きます、全体はほとんど二次曲線とお考えください。
伸展性、つまり粘り気は錫5%くらいまでが最高度でそれ以上では逆に二次曲線で降下して行きます。
(固くて粘い)のが理想としますとこの二つの曲線は12~13%位のところで交わりますから、もしそこが理想配合だとすれば、二種の混合比ですから若干の混合比実験を行えば昔の鋳造師は比較的簡単にそのポイントを見つけだしたと思います。
ところが。
そう世の中うまく行かないのです。
「色がいろいろ有るのはどういう訳か?」とおっしゃるのは「いいご質問ですねぇ」。
一つは意図的にかどうか、結果的にもう少し別種の金属を配合したようです。
西洋の鐘は「キンコンカンコン」日本の鐘は「ごおぉぉ~ん」。
感覚的にも日本の鐘配合のほうが砲に適しているような気がしますが、そのとおりなのです。
日本の鐘の組成はいろいろ違いが有りますが、錫の含有率は5%~8%くらいで伸展性はやや低下しはじめますが固さは急上昇前になってそれをおぎなっています。
さらに西欧のにはない配合金属が入っているのです。
その成分としてはまず亜鉛が1~3%あるもの、さらに鉄分が1%ほどあります、鉛も5%内外含まれます。
亜鉛は西欧のものには配合例が少なく鉄、鉛はまずありません。
逆に西欧の鐘は錫を20%ほども含むものが多いのです。
これは固くて高い音はしますが粘りは最悪ですぐに割れます。
製砲師がこの鐘の配合の関係ををどうつかんでいたかどうかはちょっと難しい判断ですが、日本の鐘の場合は組成にかなりばらつきがありますから、色のいろいろは意識的よりも素材がそうだった可能性も有りますし、それでも全体として「ご~ん」と鳴ってくれなければ商売にならないので、結果粘い系ですから「大砲もほぼそのままでいいか」になっちゃった可能性というのはどうでしょうか。
もう一つ西欧の材質には隠れた問題があったようです。
大航海時代にかかりはじめるころの大砲大需要期には、基本金属の銅が戦略物資として奪い合いになり、当然禁輸などの対抗措置が取られますからますます希少化したようです。
そこで、軍隊が他国の港湾都市などを占領したときは教会の鐘を戦利品として徴発することが行われました。
(鐘徴収権)というものが軍には与えられていたそうですが、(権利)なんかどうでも当時の軍は何でも好き勝手に徴収強奪したでしょうけれども、なにしろ多くの場合ほぼキリスト教同士の神様の財物をかすめるのですから、こちら側の教会の認許とかオハライのようなものがないとやりにくかったのかもしれませんが。
(チボラ“大砲と帆船”)にかなり詳しくこの事情が説明されてます。
これを砲材にするには、錫を抜くか、他の銅材で薄めるというか代用食的に少しずつ混入するか、いずれにしても色彩いろいろの原因たりうるのではないでしょうか。
さらに銅像などはもっと遠慮なく奪取して原料化したでしょうし、原銅の入手が困難になればなるほどイロイロになりがちだったかも。
この時期の鉄製砲の登場(正確には第二回デビューですが)というのは銅払底のとどのつまりのヤケクソの様相だったようですし。
日本と西欧ではそういう配合率不統一の原因が少し違うのかも知れません。
情況証拠的で確定は出来ないのですが。
ご参考になれば幸甚です。
昨年の7月に、遊就館の芝辻砲を「鍛造」、韮山砲を「鋳造」と書いたのですが、芝辻砲も鋳造です。間違いました。
会員の皆様へ
大変な災害ですが、皆様大丈夫ですか。
いわき市の坂本会長は、ご無事とのこと(日ラ事務局)です。
鹿島市の山本伊左夫氏は大丈夫とのお返事ありました。
仙台若林区の会員菅野氏は、1番心配ですが、FAXは通じましたので、自宅は大丈夫なようです。
皆様、初めて質問させていただきます。
私、金属に関する知識がなく、
今まで「青銅製の大砲」というものは「青銅」という漢字から、青っぽい色なのだと恥ずかしながら思っておりました。
しかしながら峯田元治様のご指摘、「各地に残る青銅砲の肌色が赤味がかったり黒味がかったり黄色味であったりする」というご指摘に蒙を啓かれ、青銅の青緑色は腐食であることにきづいた次第です。
確かに、インターネット上で見ることができる、ナポレオン戦争や米国南北戦争等の、18世紀末から20世紀はじめ頃の大砲の絵には、砲身の色が黄色・金色のものが相当数あります。
こちらのホームページで使用されている絵画でも、「幕末調練絵巻」や「明治初期の陸軍調練図」に描かれている大砲の砲身は黄色・金色になっていますね。
幕末の幕府軍、官軍が使用した代表的な大砲として四斤山砲があると思いますが、この青銅砲の砲身は青銅・砲金の黄色・金色であったと認識してよいのでしょうか。
日本軍が日清戦争で使用した七糎野砲・山砲も青銅砲ですが、これらの砲身の色はどうだったのでしょうか?
ご教授いただければ幸いです。
銃砲身の色ということについてですが、そのことに絞っての確実な記載がある資料というのは狭見でまだ見たことがありません。
ただ 解っていることはナポレオン戦争時代までは鉄砲銃身はほとんどが白磨きだったのは間違いないようです。
これば武威を誇示するためのようです。
黒く染めるようになったのは大ざっぱに言ってライフル銃大登場以後で、狙撃性能の進歩とそれに対する曝敵回避が目的でしょう。、
戦闘服の態様が大きく変わって行くのとほぼ同じ時期です。 第一次大戦ころはまだこの辺りの思想統一が中途半端だった形跡いくつも残ってます。
武威か隠蔽かという思想の混乱でかなりの犠牲を出しています。
中世西洋の軍隊は白兵主義思想の強い軍隊です。
傭兵中心の大軍勢を管理と指揮だけで戦わせるには密集+白兵(刀槍)中心に傾きます。
こういう軍勢は進撃時から刀槍をきらめかせて威嚇しようとします。
当然銃兵も同様の行動を取ることになるでしょう。
当時その鉄砲を完全に磨き上げておくのは兵士にとってなかなかの負担だったということです。
当然同じように大砲も実用時代は全部磨き上げていただろうと思います。
野外展示資料になっているものとはかなり状況が違っていたでしょう。
ただ、超巨大砲、コンスタンチノープル砲やモンスメグがどうだったかと言われると形状から考えても磨き上げは難しかったかも知れません。
あんまり磨くことを前庭として造られて無いようにも見えます。 ほとんど定置砲だったからかも知れません。
日本の武士の戦闘法は射兵中心主義です。
鈴木眞哉氏の指摘にあるとおり、戦国末期の戦いでもほとんど80%は飛び道具で決着しております。 その一部に後参で鉄砲が加わった訳です。
日本の火縄銃は、製作当初どうだったのかということですが、恐らく熱着色していて、黒色だっただろうと思います。
家康使用などの銘柄品が黒いですから、自然サビでああなったなとは考えにくいと思います。
曝敵忌避と言うことではなく、白兵威嚇思想があんまり無かったので「さびにくいほうがよろしい」という論理が通ったんだろうと思います。
青銅や真鍮の人為着色は案外面倒で、やっても益は少なく、一番優れているのは表面に金を焼き付け赤銅化することですが、蛮用すればすぐに傷付きかえってみっともなくなります。
日本軍は現在でも武器管理は突出して丁寧ですから、山砲などもピカピカに磨き上げていたと考える方がいいのではないかと思います。
資料を探してみたのですが発見できないので想像創造が強いですが。
山本伊左夫さま、ご丁寧に教えていただき有難うございます。お手数をおかけしてしまい申し訳ありません。
相当部分の疑問が氷解しました。
「白磨き」の件、大変興味深く思います。
昔日の「常識」というものは、なかなか想像できないものがあるのですね。
戊辰戦争や、西南戦争において両軍で使用された火器も「白磨き」で整備されていたものなのでしょうか?
「白磨き」、フランス以外に欧州各国で同様に行われていたのでしょうか?
(こういう疑問をもったのは、プロイセン=ドイツの、「鉄十字」の中心部分が黒なのはなぜかと、ふと思った次第です。)
更なる質問、ご容赦ください。
小銃の白磨きは近世、大ざっぱな言い方ですが軍が傭兵団アウトソーシングやりっぱなし主体でなくなって、兵制ができあがって行くころから、ナポレオン期くらいまでは、絵などで見ましても各国というか各方面というか大体は白磨きであったようです。
ヨーロッパの時代劇映画などでも、大体はこれはきちんと描いてますね。
傭兵団アウトソーシングオンリーが中心だった時代は、武器も多分個人持参ですからどうかよく判りません。 恐らく不統一です。
不統一時代はいつ頃までかと言われるとこれまたあいまいなのですが、一般に「マウリッツの兵制改革あたりじゃないの」と言うのを古い話とし、グスタフの(武器一定)を新しい時期の話とするなど、非常にいいかげんな話なのです。
なおわたしの気分としては、マッキャベリが、統一軍服で分列行進する軍隊を見て、「これこそが新時代だ」と叫んだそうな・・・という、あんまり確証のない話が伝わってますから、そのころからかなとは思っています、大体1500年前後と思います。 ものすごええかげんにしか判らないのです。
鉄の色は何色か・・と言いますと、古くは白色と答える人が多かったんじゃなかろうかと思います。
仕上げ状態の鉄を黒くするというのは案外手間なんです。
百年戦争初期のエドーワード王はブラックプリンスと呼ばれたそうですが、あの甲冑というのはそれほど珍だったということです。
鉄の色かそのうえに着たものの色か、あるいは張ってあった何かの布地革の色かはっきりはしません。
ドイツの国章ですが、(鉄十字)だから「黒くて固くてリッパなんだぞ」と言うイメージを押し出したのは、プロイセン時代、つまりヒンデンブルク前後だと思います。
このちょっと前のパリ万博で、鋳鋼(ハガネですぞ)の巨大な鐘をクルップが出品して、これは即鋼鉄製巨大砲の製造技術確立を意味しますから世界が震撼、「テツはドイツなり!」みたいな気負いも込められてたと思います。
十字章は十字軍時代の名残で、十字軍というのは
「キリスト教の(ローマ教会の)軍隊である」と言うことにどうしてもしておくというのが、まだまだあやふやなところがあった時代ですから、かえって「キリストに忠誠を誓うべし」ということは非常に強く要求されたものでありました。
西欧式の敬礼や捧げ筒。抜剣礼などはこのときの形式が強く残っています。
抜剣礼は当時の騎士刀のツバの部分、つまり十字架にキスをして忠誠をを誓って戦い始めるということです。
どこかのテッポー鳴らし隊さんが、日本刀を抜剣してチュしてましたが、真っ赤な鎧ともどもいささか・・・。
騎士は騎士で、教会の思惑とは別にキリスト様を最大限振りかざし、なかには心から振りかざすようになったのいますから、十字と言うのは貴い紋章というか、騎士どうし、あるいは騎士団の(合い印)に近いイメージで“乱用”されました。
赤十字、青十字、黄十字、白十字、縁取付十字、いろんな国旗にその痕跡がまだ残ってます。
色に意味があったのか、他との識別だけだったのか、黒は鉄の色なのか。
十字というのは簡単な紋章ですから、識別のため色はイロイロに付けまくったのじゃないでしょうか。 鉄十字というよりは黒十字だったような。
その中でゲルマン騎士団が黒十字のが多かったそうです。 見えやすくするために白ぶちをつけるのは当時から行われました。
当時の十字紋章は、現在の国旗のようにシンプルではなく、もっとゴチャゴチャ装飾のあるものが多かったのですが、後に“聖堂騎士団”の十字マントで「シンプルデザインもええなあ」なんて。
ただし騎士さんに直接聞いた訳ではありませんのであくまでなりゆきを眺めての推測です。
ハーケンクロイツは詳説すると長くなりますが、ゲルマンの伝統と、多分バイキング系の(巴形)の神秘感と、ひょっとしてインドの思想などをまぜこぜにして作られたと思います。
何しろ一時期自称アーリア民族でしたからね。
あれはナチ党のシンボルで、ドイツ軍はナチス軍と国軍との二本立てだったこともお忘れなく。
今もドイツ軍は鉄十字ですし、彼らと話すと鉄十字と柏葉、(よくサービスキャップのツバに使います、日本はオリーブの葉ですが)に関しては異様なほどに高い誇りをもっています。
ドイツ国旗をデモ隊が燃やしても抗議が来るだけですが、鉄十字章旗を燃やしたらただでは済まない雰囲気があります。
余談
以前に「英国人はヒステリックな冷静人だが、ドイツ人は冷静極まりないヒステリーだ」といったら「おめえさん、ウマイこというなあ!」とドイツ人にホメラレタ?ことがあります。
なお余談。 オリーブの葉を(ヘーワのショーチョー)と信じてるのは、「・・はイケナイ、ダメったらダメ」のおばさんだけかも。
タバコのピースのデザインで有名になってなんとなく平和の象徴?。 あれってノアの方舟に関係した(再生・復興)の意味だったような、これも想像。
ヨーロッパでは、オリーブはパクスロマナの象徴。つまり史上最初の大規模植民地主義帝国の象徴のような気がするんですけどね。
ローマが進軍するたびにオリーブを植えてたと言われ、今もローマ軍が馬つなぎに打ち込んだオリーブの杭が芽を出した円形の植え込みが残ってるそうですが。
長くて失礼しました。
補遺
老人は粗雑で失礼します、落としました。
西南戦争の銃器の色ですが、多分混合してたと思います。
原則的にはライフル銃、特にエンフイルド(エンピール)は黒染めだったのは間違いありません。
ところが後装銃であるシャスポーは、原銃に武庫で村田式研究改造を試みたと思われるもののウブを発見したことがありますが、これは完全に白磨きのものでした。
この銃は横浜の県立博物館に寄贈、常設展示ではありませんが史学会を通じて頼めば見せてくれると思います。
ゲベール銃は改造されたものが多く、あやふやな史料しかないのですが、どうやら白い方が多いようです。
なかにはゲベールそっくりのライフル銃と言うのもあります。私蔵しているものにベルギー製の可動照門をもった重たいライフル銃がありますが、白磨きです。
西南の役の当時は、軍の装備も、旧蔵品のうち程度のいいものを選んで使う時代ですから、使われた鉄砲の色もいろいろだったと思います。
山本伊左夫様、疑問氷解しました。
また、様々な興味深いお話、ありがとうございます。
また、何かありましたらご教授を請うこともあるかと思います。
よろしくお願いします。
欧米の古銃は原則、白磨ですが、英国およびその他海軍のものは何らかの方式で黒くしたあったと聞きました。もちろん、日本にあるもので錆かオリジナルかわからぬものもありましたが。
最近では帝国海軍陸戦戦隊は黒染の兵器の上にさらに黒くしたあるのが一般的でした。海で使用する特性だったのではないでしょうか。
もちろん、ゲベール、ミニエの時代はその原則に従っていたと思われます。