第389回 日本銃砲史学会平成25年3月例会報告

会場内の様子

3月9日(土)午後1時―5時10分、早稲田大学各務記念材料技術研究所
にて、会員・会友総数45名が参加し実施された。懇親会には24名が参加した。会友には『幕末史研究会』会員4名(うち1名は二本松市より)が出席された。今回の例会題目が「幕末」に関するものをテーマとしたからだ。
いつも利用させていただく会場、大会議室が工事中で中会議室に変更して行ったが、参加者が多く、京都(岡崎夫妻)、名古屋(安田、林氏)など遠方からの会員もおられ、盛会であった。
開会挨拶で宇田川 武久理事長は、当会の過去50年間にわたる歴史、有馬、安齋、所氏(いずれも故人)が日本銃砲史研究を始めた背景、経過、現在に至る状況を詳しく説明された。現在、出版準備中の書籍『銃砲史研究』に関しても経過を説明した。

写真2 宇田川名誉教授

研究発表内容
1西洋兵学書の翻訳について (板橋区立郷土資料館館長)小西 雅徳

オランダから輸入された兵術・軍事関係の兵学書籍、特に19世紀、高島 秋帆が自ら収集し翻訳したものが近代軍事、砲術の先駆けであった。


写真3 板橋郷土資料館所蔵書籍の例

写真4 小西館長

それらはどのように翻訳され、日本全国に広まったのか、どういう内容の兵学書があったか、が主たる内容であった。ペリー来航(1853)後は、蘭学書、広い範囲の兵学書が医学書と並んで多く輸入され、日本語となった。高島は出島に勤務する通司に翻訳をさせたが、シーボルトなどがオランダ語を身分に関係なく日本人に伝授し多くの研究者が翻訳書を出した。レジュメのリストによれば約120の兵学書が翻訳された。当初は翻訳元本から写本をつくることで広まったがこれは元本も高価であったが、写本も高価になった。爾後、木板刷りによる本の体裁になり、(慶応年間に日本文明史上初めて兵学書が活字を使うようになった*)幕府も諸藩も非常に熱心に兵学書翻訳とその内容研究を行ったが、約80%が陸軍関係で、残りが海軍関係であった。幕府講武所は江川を中心として集まった人たちが熱心に翻訳を行い、歩兵の教練書などが翻訳された。日本人は外国語が苦手と言われているが高野 長英などシーボルトに学び、その他多くの優秀な人間がこういう翻訳作業と研究に働き、それらは明治の近代化にも続いた。

2、オランダ渡りというボンベン弾鋳型
中江 秀雄、峯田 元治、小西雅徳
長崎、高島邸跡から出土したボンベン弾鋳型の4分の1の複製品(写真5-1)から推理した内容であった。鋳型表面のX印の切り込み、中央部の黒色、中空弾の製作法、なぜ4分の1だけが出土したのか?ボンベン弾は炸裂弾であり、内部に火薬を装填するための穴の空け方などに対する解析であった。これを茶の湯釜の製法との対比で、その答えを出した。鋳型を造るには多くの技術が必要であるが、特に鋳型内部に丸い型(これを中子という)を入れ、その隙間に融けた金属を鋳造することで中空の弾を造った。


写真2-1

この外側の鋳型は繰り返し使用するため、先ず、上下に2分割し、さらにこれらを左右に2分割する。したがって、鋳型は4分割される。これが4分の1の鋳型になる。表面のX印の切り込みは、この上の仕上げの鋳物砂を塗布した際の、両者の椄合性を確保する手段である。また、黒色部は鋳物砂(真土)には紙の繊維、木炭の粉末、藁などを混入し、鋳型の強度、通気性に約立てた。これが黒鉛化してものが黒色を呈していたのであろう。

 写真2-2説明する中江名誉教授

3、スペンサー式騎兵銃の機構と弾薬
杉本 健一、磯村 照明

幕末の花、スペンサー銃はアメリカ南北戦争剰余兵器の一部であった。
リンカン大統領が入れ込んだので、「リンカンの銃」と呼ばれているそうだ。
(ホワイトハウスの庭で試射を行った最初で最後の小銃だ*)
同銃は縁打ち金属薬莢を使用したライフル銃で、銃床の筒弾倉を使用する。
その仕組みと運用を杉本氏が自らの収集物の同型銃で説明した。

写真6、銃の装填、機構を説明する幕末銃研究家 杉本氏 肩かけの弾入れは複製品

スペンサー銃は用心鉄・柄(レバー)で装填・排莢を行い、別に撃鉄(ハンマー)を上げ引き金を引いて撃発した。重量は4㎏弱だ。以下、磯村氏の説明。
ライフル銃開発は弾丸ありきでクリストファー・スペンサーは56x56インチと言う弾薬を開発し、それを使った縁打ち連発銃を製作した。南部連邦は総計20万挺のスペンサー銃を購入した。(南軍の規模からすると異様に多いが*)北軍に一部が採用されたが、大規模なものではなく、北軍は自らの工廠で56x52という異なる弾薬のスペンサー銃を製造した。戦後、スペンサー社はウィンチェスター社(コネチカット*)に買収された。日本は1867―69年に大規模な近代銃輸入を行ったが、果たして供給側の都合で、価格を決められ、目的に合致したものでない銃も多かった。スペンサー銃には弾薬と銃が適合しないものもあった。弾薬には数種類あったからだ。
ヘッドスペースが違うものを装填すれば当然命中率の高さは望めず、危険だった。


写真7 カートリッジ研究家 磯村氏

その後、NHK大河ドラマ『八重の桜』に関してのフリートークを行った。
誰が時代考証、兵学関係を行っているのかと言う意見が多く出た。
写真8 当時の銃の照準器に関して意見を交換した磯村、和田氏

 

4、鉄砲山古墳で発見された忍藩角場について
 埼玉県立さきたま史跡の博物館 学芸員 岩田 明広氏

さきたま古墳群は埼玉県の所在する10以上の古墳から構成されている。
鉄砲山」古墳の形状に通常古墳と異なる形状の部分がありそこを発掘したとこ
ろ鉛の弾丸が多数出土した。それらを元に湾岸海防の重要な任を担っていた忍
藩の射撃調練場(角場)の昔の姿を再現する内容であった。弾丸はトレンチ(塹
壕)を手堀りで進め、幾つかの鉛玉を発見し、さらに、的を立てた柱の穴、安
土(バックストップ)の盛り土、などを発掘した。また忍藩が海防の任にあっ
た房総の陣屋図にも同じような角場があった。忍藩は武衛流を採用しており、
大鉄砲を俵に載せて発射する仕組み、その他絵図で多くの情報を得た。

写真9 説明する和田氏
発見された160発の鉛弾のうち多くは三匁であり、二百匁もある。
しかしミニエ式の鉛弾は3発で、忍藩は一貫して和流の装備であったことが
結論付けられる。宇田川名誉教授より「武衛流は羽子板型の地板である」と
絵図の見分けの御指示があった。


写真10 角場の絵図

 

5、岩倉使節団の見た欧米軍事事情特に鉄砲関連
―米欧回覧実記によるー
室賀 脩
岩倉使節団とは、何を目的にどのような人間で構成されていたか、を詳しく
説明された。それれは①日本の明治期の制度、法律の理論を欧米風なものを研
究し国家体制を作る基礎を勉強すること。
②経済の事情、産業革命、工業、商業、貿易の近代化を知ること。
③教育・学校制度、医療・福祉分野の近代化を知ること。
④海陸軍の実情、軍備の制度を、兵器の開発を見ることなどであった。
特に④に関しては米国ではスプリングフィールド工廠、ウエストポイント
など、英国ではウーリッジ造兵廠、ホイットワース社小銃工場(◆な弾丸を飛
ばす*)、アームストロング社、ビッカーズ社、バーミングハム(工業地帯*)
など、独逸ではクルップ社を訪問し、見学した。
(ここで持ち時間45分が切れ、残りは次回の機会に説明することになった。*)


写真11 室賀 脩氏

なお、スペンサー銃会員回覧の際に空打ちを2回行った。金属部を素手で握る。
人間に向ける。引き金に指を掛けるなど、弱い部分で保持するなど、銃砲史関
係の常識が守られなかったことは至極残念だ。* 杉本氏に謹んでお詫び申し
上げる。
(管理人記、* 同注釈)