日本銃砲史学会12月例会報告 

12月8日(土)午後1時―5時 早稲田大学理工学部各務材料研究所にて
延38名の会員、会友が参加して行われた。当日は晴天、気温も高く多くの会員会友が来られた。特徴としては幅広いテーマの発表、活発な意見と質問、各々数名、があった。

宇田川理事長の開会の辞

宇田川 武久理事長のご挨拶は「日本全国青森から佐賀まで、京都、名古屋の会員も参加して本年最後の皆さんの研究発表を聴けるのは喜びに堪えない。本年も、会員多くの研究作業、発表、論文作成が行われたが、来年は更なる会の発展を祈りたい。」という内容であった。なお、京都からは先日来病に伏していた岡崎 清理事が回復されご夫妻で参加された。

研究発表

1)『鉄炮からみた江戸時代砲術の分派と交流』
副題―国友丹波大掾の橘宗俊銘鉄砲の検討からー 発表者 安田 修氏

 安田 修氏

安田氏は愛知県の古銃登録審査員であるが、火縄銃の本家、愛知その周辺の
鉄砲をくまなく観察し、その都度新しい発見をしてその結果をまとめ、発表される。今回もそのひとつであったが、宇田川 武久先生著「江戸の炮術師」より多くの示唆を得たと述べていた。以下はその発表の概略である。
「① 現存する鉄砲は流派が特定でき砲術研究資料としての意義がある。愛知県岡崎市博物館が所蔵する二挺の国友丹波大掾宗俊銘の鉄砲はほぼ同寸法で全長約100㎝、銃身長70㎝、口径20㎜(約二十匁)だが、それらの詳細は異なる。(部分の写真をもち説明)「蒲鉾金」を止める2本の鋲、鍵型の引き金などに注目。所 荘吉氏の「国友丹波」銃工の否定はまずは訂正すべき事実であろう。現存しており資料で証明できる。」

 2挺の差

「② 関流の創設と種子島流からの分派
江戸期「江府住富岡佐平治吉久」作の関流鉄砲の例」
「③ 藤岡流小筒の仕様
藤岡流は近江甲賀出の藤岡六左衛門が播磨において開祖した流派である。
口径が小さい。」
「④ 「諸流御鉄砲留記」にみる諸流の合流現象
武衛流の鉄砲」
「⑤ 二挺の国友丹波大掾宗俊銘の鉄砲の差は、銃身は関流、銃床は武衛流という結果となる。1幕末にかけて武衛流を修行した者の所有であろう。各流派が交流し、分派し様々な様式の鉄砲が存在した。」

(以上、安田氏は江戸期の火縄銃に関してまだ多くの課題が残されているのに、当学会でも研究する者が少ないのは残念である。現物から知りえる発見の可能性は多くある。と結ばれたが耳の痛いコメントであった。)
全14ページに渡る詳細な写真入りの論文は「銃砲史研究」次号に掲載される。

2、『元・明代前期の火砲をめぐって』 発表者 鄭 ウエイ ウエイ氏

 鄭女史

同志社大学で研究する中国東北部出身同氏の研究課題である元から明にいたる中国の火砲を彼女が発掘地を訪れ、実際に観察した研究と発表であった。
各種の砲がどのように製造され、使用されたかは推測であるが、現物の詳細な
写真は様々な示唆を与えて呉れた。一部は「同志社グローバル・スタディーズ」第2号2012年3月発刊にある、「洪武大砲をめぐって」と言う論文に掲載された。発表の概略は以下の通りである。「モンゴルで発掘された1298年の銘のある火砲が最古のものであろう。中国では14世紀に洪武十年銘の砲、角度を調整できたものとしては最古である。西洋の学者がこの砲に注目した。続いては明の時代、有馬先生の本にもある、「大将軍砲」と言うカノン砲に近い長さを持つ砲。牛臑砲、竹節砲などと呼ばれ砲身に輪をはめたもの。しかしながら中国の砲は17世紀になり、製造、構造などは西洋と大きな差が開いた。「洪武砲」「大将軍砲」青銅から鋳鉄製であった。」

 

宇田川理事長より、仏狼機砲に関してのコメントがあった。

3、『幕末佐賀藩における長崎砲台の配備記録』 発表者 前田 達男氏
佐賀市教育委員会 世界遺産調査室 田口 芙季氏 共同研究

 前田 達男氏

同氏等は九州・山口の近代化産業遺産群の世界遺産登録を目的に研究を行っている。今回の発表は「長崎港の砲台警備、使用されていた砲など、その背景に反射炉や大砲製造の努力があった、また港警備は古来の「囲み船」方式から、「外目」砲台から「内目」方式への変遷。また警備が開始されたのはフェートン号(1808年)来ではなく、アヘン戦争後の1840年代になり、佐賀、福岡の両藩に命じられたとの記録であった。台場の構造は和式であり、約50門の和砲が使用されていた。慶応三年における両台場の方は青銅カノン砲25門、鋳鉄砲5門であった。」この課題は以前、佐賀の大砲製造の発表として行われた内容の続きであり、まだ次のテーマに続く。

 長崎港内砲台の図

全18ページの論文が用意されている。

4、『軍需品としてのスキー事始めと銃』 発表者 名古屋 貢氏

 名古屋 貢氏

(北の国々ではスキーは軍用、狩猟用に銃とは切っても切れない縁があった。
現在でもオリンピック競技として残っている「バイアスロン」がその一端だ。
ちなみに同競技では1970年代後半までは.30口径150mで行われていたが、現在では競技用小口径50mになった。発表はその原点を調べたものである。)
以下はその概要。
「日本にスキーを紹介したのはオーストリア人レルヒと言われているが、それ以前、北方での雪中戦闘に備えて、国防方針として銃を背負い、スキーで行軍する方針が語られていた。レルヒはスキーの運用を教授したのではないか。
雪原上スキーをはき曳かれる「保式機関銃」、小銃などの射撃の珍しい写真を
添えての興味深いテーマであった。果たして、スキーで走り呼吸数、心拍数が上がった状態で、足元が定まらぬ射撃の訓練や成績は如何に。軍用スキーはアルペン方式でなく、かかとの上がるノルディク方式であった。」

 雪上での射撃

(各国の山岳部隊はヘリコプターやスノウモバイルの出現までは体力、知力に優れたもので構成されていたと聞くが興味深いテーマであった。)
論文が楽しみである。

5、『日本の鉄砲鑑札と高札』          発表者 須川 薫雄氏
「江戸期はどういう時代であったのか?日本の近世は兵農分離、新田開発などの生産力の増強から始まり、そのために鉄砲による狩猟がお上の許可の元に百姓にも許されるようになった。職業としてのマタギも社会制度に組み込まれ。
禁猟区や、禁猟季節が存在することを示した鑑札、高札例など実物を示した。
また「脅筒、威筒、用心筒」などの言葉にあるように、江戸期後半から明治にかけて治安の乱れた時期、日本にも護身用に銃砲を所持させるという制度があったのではないか?と言う課題も出された。」が概略である。

 鉄砲鑑札の例、紙袋に入る

先にも述べたように、コメント、意見、質問など多くが出され本年で一番活発なる例会であったことを再度述べる。(管理人記)

平成24年度懇親忘年会開催される(例会当日)

例会終了後、京都から参加した岡崎 清ご夫妻を囲み約18名が近所の会場に集合、午後5時半より8時近くまで活発な意見交換を行った。中江名誉教授のお話によると、会員数の増加により、会場が手狭になってきた。何らかの策を考える必要があると。中国から大砲の研究に来た鄭女史に多くの質問がなされた。

岡崎 清理事が元気に復帰され乾杯の音頭とご挨拶をいただいたのは会員に元気を与え、和気あいあい楽しい会になった。(管理人記)